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なぜいま、デジタル庁は「デジタル」を叫ぶのか?

デジタル庁なる役所ができたせいか、いまさらのように「デジタル」という言葉がトレンド入りし、これまで無縁と考えられていた政策や文化事業などにも使われている。実際のところこの言葉は、コンピューターやスマホを使ったサービスなどに関連付けられた何か、という程度の意味でしかなく、イメージ先行で実体が良く分からない。大して変わらない従来の事物にかぶせて、「ニュー〇〇」といったニュアンスで使われる。類似品にご注意と言いたい。

「デジタルの日」の違和感

1と0の文字が並ぶ10月10日から11日にかけて、デジタル庁創設記念として「デジタルの日ONLINE EVENT」なるイベントがYouTubeやTwitterを介してネット配信されたが、それに先立って10月5日からYouTubeで「#デジタルを贈ろう」という映像が流れた。

最初に画面に出て来るのは、「母は、デジタルに憶病だった。」という文字と、台所のテーブルに腰掛けた高齢の女性(といっても私と同世代)。入って来た娘が母に「お兄ちゃんからもらったタブレット使ってないの?」と問うと、伏目がちになった母は「うーん、それちょっと無理だと思う」と返すと、娘がこのままじゃ世間に後れてしまうから教えてあげる、と背中を押して母は重い腰を上げる。

そしてその後(の展開は十分想定内なのだが)、こうしてタブレットを使いだした母が急にネット民化し、写真を送ったりAIに天気を尋ねたりオンラインで病院と連絡をするようになって、家族全員がもっとつながるようになってハッピー! という展開だ。

ちょっといい話でデジタルって素晴らしい、と誰もが思えるイメージを演出しようとした製作者の意図は分からないでもないが、何かデジャブ感を覚えた。最近よく朝方テレビで見るCMにそっくりなのだ。高齢の母がもう老人だから地味な色の服しか似合わずオシャレはできないと暗い顔をすると、娘が若返り化粧品を勧めて、母はそのおかげでめっきり若返って新しい明るい色の服で街に繰り出す。

ダイエットや英語、頭髪の悩みは三大コンプレックス市場とも言われ、世間の目を気にする人がどうにかしようと必死に金を注ぎ込む。デジタルをこうしたやり方でPRしても世間に取り残されるという無言の圧力の要因になり、ともかくタブレットやスマホを購入するだけという結果にならないか?

またデジタルの日のイベントの冒頭では、それに重ねて日本のデジタル度の話があり、パソコンやスマホがどの年齢層にどれだけ普及し、どれだけ使われているかが論議されていた。それがデジタル化の現状を示すものであることは分かるが、それらが改善されただけでは現在の閉塞感が漂う社会の問題の解決にはならないだろう。

コロナ禍の中の初のデジタルの日ということもあり、イベントはネットでの開催だった。映像はバーチャルスタジオのソフトを使って、デジタルっぽく未来志向? のCGで作られており、セットには司会者と登壇者を両側から警備ロボットとされるキャラが狛犬のようにはさんでいた。アニメ作品「攻殻機動隊 SAC_2045」とのコラボだというが、若いファンに参加してもらう工夫のつもりだろうが、老人やファンでない人にはそうしたオタキャラを出す意味もわからず、「誰一人取り残さない」という主張のこうしたイベントの趣旨にも合っていない。所詮はお役所仕事でこういうイベントを作ると、いつも何かちぐはぐな違和感が残るのはどうしてだろう。

楽しいお祭りがあるから来てほしいと誘い、何事かと思って寄っていくと専門家が集まってしたり顔で説教されて、それで何をするのかと疑問に思っていると、主催者もわからないのでこちらにアイデアを出せと言う話だ。現在の風潮に乗って、会社でDX(デジタル・トランスフォーメーション)を推進する会議が開かれても、結局トップはどうしていいのかわからず、若い社員にひたすらハッパをかけるというような、同じような展開が世間にあふれているのではないだろうか。

ソフト開発の限界

菅政権が目玉政策として昨年ぶち上げたデジタル庁だが、このイベントの直前にはスイスのビジネススクールIMDの「世界デジタル競争力ランキング」が発表され、世界64カ国のランキングで、日本は欧米やアジアの主要国には及ばず、ベルギーやマレーシアに次ぐ28位というお祭り気分の足を引っ張るような結果が出されていた。

知識、技術、将来性、人材、ビジネス度などの指標などによる評価だが、科学的知識への取り組みや技術の枠組みなどは比較的上位にあるものの、特に人材の国際経験やスキルや企業の対応力が、ほぼ世界の最下位に位置するという厳しい結果だ。

1位はやはりアメリカで、香港、スウェーデン、デンマーク、シンガポールと続くが、8位にはオードリー・タン担当大臣の活躍する台湾が昨年より3位順位を上げて食い込んできている。いろいろ動きが活発な中国は15位だが、昨年8位だった韓国は、どういうわけか4位ダウンして12位と振るわない。

総務省は最新の情報通信白書でこうした遅れの原因として、ICT投資や人材の不足、デジタル化への不安や抵抗、デジタルリテラシー不足などを指摘しているが、こうした点は昔から何度も指摘されてきたものの、それらがずっと主張され続けるのは、政策不足なのか? 文化的限界なのか? などの分析が不足しているせいではないかと思うが、結局はデジタル化の後れに対する本当の危機感を誰も感じていないのではないかとさえ思ってしまう。

思えば、日本のデジタル化に対する政府の取り組みは、急に21世紀になってからICT化の掛け声の下にIT戦略本部が設立され、e-Japan戦略、i-Japan戦略、世界最先端IT国家創造宣言、デジタル・ガバメント推進方針等の言葉が続き、2018年には世界最先端デジタル国家を目指すと威勢のいい宣言をしているが、ある程度のインフラ整備は進んだとはいえ、世界ランキングでは最先端からは程遠く、掛け声ばかり大きくて、それらは地球温暖化対策のように空回りしている。

デジタル化の前夜の1960年代には通産省が音頭を取って、電子計算機(コンピューター)開発でアメリカに追いつくべく企業を指導・グループ化し、IBMに対抗する安価で高性能なハードウェアを作り出すことでコンピューター産業の育成に奔走した。おかげで1980年代には日本の国際競争力も上がり、世界最大のシェアを取っていたIBMが日本では2位に転落する事態にまでなった。

しかし時代は、いわゆるハードウェアを高速化する戦いから、それらの計算力を十分に発揮するためのソフトウェア開発にシフトしていき、ソフトウェアの知的所有権を強化するアメリカが次第に情報化の最先端に返り咲いていき、次のパソコンの時代には基本ソフト(OS)を押さえることで躍進する。

パソコン時代には家電化したコンピューターは、誰でもが手を出せる日用品化して価格が下がり、日常で使われる場面が増えるにつれてソフトが多様化して、それらを供給するソフトウェア産業の人材不足が叫ばれるようになり、通産省はAIを自由に扱える次世代の第五世代コンピュータ計画(1982~1992)を宣言し、ソフトウェア開発の高度化や効率化のためにシグマ計画(1985~1990)などをぶち上げたものの、鳴かず飛ばずのまま終り、国家予算の無駄遣いだと批判を浴びた。

結局こうした政府の大型予算を付けた振興策で具体的成果を上げたのは、1976年から80年にかけて官民で作られた高密度な次世代LSIを作るための露光装置などを開発した超LSI技術研究組合ぐらいだ。それによって日本は80年代には「情報産業の米」とも呼ばれた世界の半導体市場で過半数のシェアを取るまで躍進を遂げたものの、その後の振興策は不十分なまま市場は韓国や台湾にどんどん追いつき追い越される結果になった。

新しいメディアの普及とは

もともとデジタルという言葉は指を意味するラテン語から派生し、数を数えることも指すが、これが1と0の論理を駆使する電子工学的な応用に関して使われるようになったのは戦後の話で、一般の目に触れたのは1970年代にデジタル時計が出現した以降だと記憶する。

最初の電子計算機とされるENIACも、電圧の値などを使ったアナログ式ではなく、電気が通っているかいないかで数値を数えるデジタル式(離散回路)で組み立てられ、情報理論を提唱したシャノンは情報の量をビットで表現しており、戦後のコンピューターや情報理論はデジタルを基本にしていたが、「電子式」とか「電卓」などという言葉は使われても、まだ「デジタル」という言葉が正面切って使われることはなかった。

真空管に代わってトランジスターが用いられ、さらには集積回路(IC)がデジタル方式で動くようになり、1971年には最初のマイクロプロセッサー(インテル4004)が出され、卓上電子式計算機が売り出されたが、まだデジタルという言葉は使われなかった。

文字盤の上を針で時刻を指す従来型の時計や数字が数値盤で示される機械式の時計に代わり、電子式の表示盤を使ったデジタル時計が発売されたのは1970年代で、80年代には電卓やデジタル式腕時計を売り物にするカシオが「デジタルはカシオ」とCMを打ち始めて、少しずつこの言葉が認知されるようになった。

コンピューターがデジタルであることは自明だったが、デジタルであることよりその利用価値が問題になり、コンピューター以外の家電や従来の道具がデジタルで換骨奪胎して飛躍的に便利になったりしないと、なかなか一般人はデジタルの効用には気づいてくれない。

1990年代にパソコンの性能が向上して、文字以外に画像や映像、音声を扱えるようになって、テレビや本の真似をし始めると人々は関心を示し始め、インターネットにつながることで電話よりインパクトのあるメディアとしての認知が進んだ。

新しい何かが起きた時、人はその原因となった事象を理解することはなく、それによって起きた変化で、その背後にある原因に行き当たるようになる。デジタルも1と0から始めて一から原理や応用を説いても誰も見向いてはくれまい。

極端な話、映画「マグラダのマリア」を観て膝を打ったが、キリスト教が普及し始めたのは、何もキリストの教えがすばらしいと人々が理解したからではなく、彼が死者を蘇らすなどの奇蹟を起こしたからだ。そうした日常を超えた変化を知った人が、その周りに集まってその原因となる考えに馴染んでから、その後に自ら変化を起こしていくのだ。

デジタルの普及も、自動車や電話などの昔のメディアの普及に重ね合わせて考えれば分かるが、国が主導して大声をあげてもだめで、そうした変化の土台にあたる道路やネットワークインフラを公的なパワーで整備し、その効用を活用してくれる民間の自動車やデバイスを作りやすい環境を整え、人々を呼び込みその気にさせるのは誰かに任せた方がいい。

スティーブ・ジョブズはデジタルを普及させたかったわけでも、パソコンを売って儲けたかったわけでもない(少しはあったろうが)。自分が信じる美しい何かを実現し、それを他人と共有したいという強い思いで製品を作り、それに共感した人々が世界を変えたのだ。

そもそもデジタルが必要かという根本論はあるにしても、世界のトレンドをデジタルが支えていることは確かで、その時代変革をどう捉えて国や人々の幸せに結びつけられるかは世界共通の話題だろう。他国より後れているという論議ばかりでなく、実際はそれを使って人間社会や個人の自由をどう新しい時代に捉え直すか? というテクノロジー以前のビジョンの論議や認識なしに、ともかく後れて不便だから儲けたいからと騒ぐのは本末転倒だ。

これまでの歴史を大きく変えてきたのはテクノロジーだが、それらが出現した理由や、それが社会にどう受け入れられ、人々の想像力を変えていったかという事例はいくつもあり、デジタルについても同様の論議が可能だろう。

もちろん、こうした理想論や形態論ばかりでなく、政府が情報化し社会全体が便利で幸せになるために具体的に政府機関を作ったり広報したりするのはかまわない。ただ、なぜいまデジタルを問題にするのか? というそれ以前の論議をまるでしないで騒ぐのは、百害あって一利なしなのではないだろうか。