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コロナ対策に成功した台湾、日本と明暗を分けた理由は?

◆公衆衛生の人材を重用した台湾

日本と台湾の新型コロナウイルス対策について、最大の違いがどこにあるのかと聞かれれば、私はこう答えるだろう。

日本は対策を“感染症”の専門家が主導し、台湾は“公衆衛生”の専門家が主導した。

台湾ではいわゆる感染症の専門家の活躍は表立って出てこない。コロナ対策を牽引したのは、陳建仁副総統や陳其邁・行政院副院長ら公衆衛生のキャリアや経験を積んできた人たちだった。
コロナ対策を牽引した陳建仁副総統(当時)は公衆衛生の専門家だった(台湾総統府提供)

日本では、感染症の専門家がこれでもか、という形で前面に出ている。テレビや報道でおなじみとなった岩田健太郎・神戸大教授も岡田晴恵・白鷗大教授も感染症の専門家である。だが、台湾ではメディアの取材や番組によって、日本のように感染症のプロたちが延々と見解を披露することにはなっていない。

日本で公衆衛生の専門家の存在感が薄いのは、6月24日に廃止が発表された政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーをみても明らかだ。

座長の脇田隆字・国立感染症研究所所長はC型肝炎の専門家で、副座長でいつも安倍首相の側で説明役を務めている尾身茂・地域医療機能推進機構理事長は、地域医療を専門としている。ほかのメンバーも押谷仁・東北大学大学院教授、岡部信彦・川崎市健康安全研究所所長をはじめ、12人中、9人が感染症の専門家で、公衆衛生の専門家は東京大学医科学研究所の武藤香織教授しか入っていない。残りの2人は、医師会と法曹界からの当て職メンバーである。

このように日本は感染症主体の人材で新型コロナウイルスを迎え撃った。新型コロナウイルスも感染症であるので、感染症の専門家は大切なのだが、公衆衛生の専門家が目立たないことに、台湾の動きを見ていたせいか、引っかかっていた。

感染症のプロたちにも公衆衛生学的知識はあり、公衆衛生のプロにも感染症学的知識はある。しかし、専門家は最後には自らの専門とするフィールドにこだわるもので、個性や主張も、それぞれの専門のバイアスがかかる。

感染症がそのウイルスや細菌の能力そのものを調べ、治療法を考える純粋医学であるのに対して、公衆衛生学は感染症の流行から生まれた医学と他の専門知識を統合したような学問だ。

歴史が教えてくれるのは、自然現象である他の生物のウイルスが、人間から人間へ感染することによって社会を崩壊させる暴力的な破壊力を持つことだった。パンデミックで失われる生命の数は桁違いだ。数千、数万ではなく、数十万、数百万、数千万と死者数が積み上がっていく。これは、戦争による犠牲者数に等しい。いわゆるヒト―ヒト感染の有無に専門家がこだわるのはそのためである。

パンデミックレベルの拡散においては、通常の自然現象としての感染への対策では対応できなくなる。とにかくお金と人員がかかるため、医師や研究者が対処できるレベルを超え、政治の出番となる。こうした医療レベルを超えた対策を考えるのが広い意味での公衆衛生学である。他国からの侵略から国民の命を守るのと同様に、国民の命を守るために、国家の力をどう動員するのかを考える学問なのである。

◆新型コロナウイルスへの対応はまさに「戦い」

今回の新型コロナウイルス問題で、しばしば「新型コロナウイルスへの対応を『戦争』と例えることに、政治家はもっと慎重であるべきだろう」(朝日新聞、5月6日社説)という意見が出された。確かに、戦争のように敵を憎む、敵を殺すというものではないという意味では、その意見は正しい。「生命や健康のため」という理由による異議を唱えにくいムードを、その他の政治目的に悪用することは防がねばならない。

しかし、パンデミックという問題においては、権力集中的な発想が求められることも事実なのである。実際、世界の指導者の多くが、今回の新型コロナウイルスの問題を「戦い」に例えた。台湾の政治家たちも「戦い」というフレーズを多用していた。

ただ、それは、必ずしも戦争のような愛国意識を煽るという目的からやっているのではない。医療は一人の命を救うところから発想するものだが、公衆衛生は集団の命をどう救うかから発想する学問である。一人の命を犠牲にしてでも100人の命を救うということも考えねばならず、そもそも拠って立つ場所が医療とは違う。

公衆衛生とは、人口学や経済学、統計学、健康管理学を駆使しながら立案するもので、それを受けて医療現場では医師や専門家がそれぞれの役割を果たすことになる。

今回のパンデミックへの対応が公衆衛生の「戦い」であることを示したのが台湾の取り組みであり、台湾のコロナ対策の成功の影にはそれがあったというのが、私の観察である。
出発点はやはりSARSであった。当時、SARS対策の最前線で衛生署長を務め、省庁間の連携や中央と地方の調整に苦労した李明亮医師は、2020年4月のインタビューでこう振り返っている。

「SARSの時に私個人として気がついたのは、(感染症対策で)公共衛生は臨床医療よりも重要であるということだ。公衆衛生は防疫の第一線で、臨床医療はその一部分である。患者の命は天命に委ねるものだが、公衆衛生は(その国が)ウイルスに陥落させられない最も重要な鍵を握っている」(『聯合報』)

◆感染症の専門家ばかりだった日本の構造的問題

日本ではどうして公衆衛生の専門家が目立たないのか。おそらく日本の医療行政や医科大学における「臨床優位」の状況があるためだと言われている。

欧米では医師の養成はメディカルスクールで、公衆衛生の専門家はスクール・オブ・パブリックヘルスで、それぞれ研究と教育が行われているという。

日本では伝統的に公衆衛生学の分野が弱いとされ、医学生にとって公衆衛生はあまり人気ではない。それはおそらくは就職先や活躍の場などが限定されていることが関係しているのではないだろうか。

日本を代表する行政学者である森田朗・津田塾大学教授の次の意見は腑に落ちる。

「日本で感染症の専門と言えば細菌やウイルスの研究、症状の研究やワクチンの開発をされている方が多く、パンデミックの時に、国民の行動や生活、社会活動をどう統制するか、人間の行動や心理面への洞察も含めて、社会全体としてダメージを最小化するという公共政策の観点から発想できる人は多くない」(『中央公論』5月号「緊急事態の政治学」)

少なくとも、感染症の専門家と公衆衛生の専門家がバランスよく政府の専門家会議にも、テレビのコメンテーターにも含まれていて然るべきではないかと思う。だが、そうした人材を見つけること自体に困難があることと、日本の感染症対策が「国立感染症研究所」主導で行われていることなどの構造的な問題があるように思えてならない。

また、政治家の資質、適材適所の人材の起用という点においても、台湾の状況は我々に多くの思考すべき問題があることを示唆している。ただし、議会制民主主義を採用し、ほとんどの大臣が政党政治家から起用される日本と、政党政治家の大臣への起用は限定的な台湾との比較には慎重にならないといけないことは言うまでもない。

ただ、適性が明らかにとぼしい政党政治家を省庁のトップに起用し続け、それが一種の論功行賞や派閥政治の材料となっている日本の政治は、少なくとも専門性を有する分野に対しては、一定の知見を求める人材を配置するように変わっていってほしい。

また新種の感染症への対策においては、台湾のように公衆衛生の専門家をトップに起用し、その下に感染症対策、医療行政対策、社会政策対策、経済政策対策、リスクコミュニケーション対策などの人々が集いながら、総合的に政府に提言をすることが望ましい。

今回の日本のように感染症の専門家中心になれば、未知のウイルスが相手である以上、その判断はどうしても医療重視、あるいは病院重視にならざるを得ない。もちろんそうした論点も重要ではあるが、今回、日本で人々が不安や不満に感じたのは、マスクや休業補償、PCR検査など、感染症そのものとは異なる分野であった。その点への目配りを考えれば、今回の日本の専門家会議は単一性が高過ぎたし、公衆衛生やその他の専門的な知見を存分に活用できる布陣になっていなかった。

台湾では新型コロナウイルスからの出口が見え始めた5月15日、アジアで初めてとなる公衆衛生師法が可決成立した。公衆衛生を専攻した若者に受験資格を与え、公衆衛生上の緊急事態が発足した時、政府は公衆衛生師を指名して対応に当たらせることができる。彼らは普段は医療機関や介護施設、行政省庁などで働きながら、環境・健康リスクの解決や感染経路の調査などの業務を行う。

台湾大学公衆衛生学院の詹長権教授は、法案の成立を喜んでこう述べた。

「今回のような大規模感染症の流行は『第三次世界大戦』と同じであり、人類は新型コロナウイルスがもたらす新常態(ニュー・ノーマル)を受け入れなくてはならない。『公衆衛生師法』の成立もまた新常態の一つだ」(TAIWAN TODAY ,5月18日)

SARSの頃は、台湾の衛生部門の予算はたった3%しか公衆衛生に使われていなかったという。当時衛生署長だった陳建仁副総統は、「長年、台湾は重医療軽公衛(医療重視・公共衛生軽視)」の問題があったと指摘し、公衆衛生体制の強化を行う伝染病防治法の改正に着手した。そうした積み重ねがあって、台湾は今、世界最先端の公衆衛生国家に向けて、さらに先に進もうとしている。

◆疾病予防管理センターの必要性

翻って日本へ目を向けると、やはり日本にも疾病予防管理センター(CDC)的な司令塔組織が必要ではないかと思えてくる。参議院議員の佐藤正久は、「2009年の新型インフルエンザの流行後、有識者からは日本版CDCの創設が提案されたが、当時の教訓は生かされず、今日に至っています」(FACTA オンライン)と5月のインタビューで語っている。

一方、今回、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の座長を務めた脇田隆字・国立感染症研究所所長は2月27日の日本経済新聞のインタビューで、「CDCをつくれば問題を解決できるのかというと、そうではない。感染研はCDCの機能を一部担っており、平時には効率的な組織になっている。組織をつくっても硬直的なら、うまく機能しない」「感染研は4月に、感染症の流行に機動的に対応できる組織をつくる計画だ。病原体の研究に強みはある。さらに集団を対象に感染症の発生原因や予防などを研究する組織や地方自治体とのネットワークを強化する。手を付け始めたところに今回の感染拡大が来てしまった。今後強化していきたい」と述べている。

これは苦しい主張だ。そもそも感染症の研究機関である感染研がCDCの機能の一部を担うべきであり、自らがCDCになろうとする想定自体に無理がある。

米国だけでなく、英国にもスウェーデンにも、保健省の傘下に公衆衛生庁という組織があり、新型コロナウイルス対策でも陣頭指揮を執った。韓国の新型コロナウイルス対策でリーダーシップを発揮したのも、公衆衛生の博士号を有する鄭銀敬・疫病管理本部長だった。

感染症対策に感染症の専門家が必要なのはいうまでもないが、あくまでも公衆衛生という広い概念のもとに、感染症研究も大切な一部として組み込み、総合調整機能をもった司令塔組織を立ち上げるべきであることを、今回の新型コロナウイルスは教えている。そうしなければ今回のような「感染症有事」的な事態には対応できないことは、はっきりしている。

【野嶋剛(のじまつよし)】

ジャーナリスト、大東文化大学社会学部特任教授。元朝日新聞台北支局長。1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。政治部、台北支局長、国際編集部次長、AERA編集部などを経て2016年4月に独立し、中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に、活発な執筆活動を行っている。『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)、『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)、『銀輪の巨人 ジャイアント』(東洋経済新報社)、『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)、『台湾とは何か』(ちくま新書)=第11回樫山純三賞(一般書部門)、『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)等著書多数。最新刊は『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』